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      <title>歴史の日本地図</title>
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      <description>歴史を日本地図で振り返ります。</description>
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      <lastBuildDate>Wed, 25 Jul 2007 18:15:36 +0900</lastBuildDate>

            <item>
         <title>姉川の戦い</title>
         <description><![CDATA[姉川の戦い<br /><br />
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姉川の戦い（あねがわのたたかい）<br />戦国時代の元亀元年6月28日（1570年8月9日）に近江国浅井郡姉川河原（現在の滋賀県長浜市野村町（旧：東浅井郡浅井町野村 域）付近）で行われた合戦である。<br />

因みに、当時は織田、浅井方ともこの合戦を「野村合戦」と、朝倉方では「三田村合戦」と呼称していた。「姉川の合戦」は徳川家における呼称である。『信長公記』などに合戦の記述があるが、簡潔な内容にとどまる資料が多く、合戦の詳細については不明な部分が多い。<br /><br />尾張（愛知県西部）出身の戦国大名である織田信長は今川氏、美濃国の斎藤氏をそれぞれ撃破したのち、上洛を目的として近江に侵攻した。北近江を治める浅井長政は、信長の妹であるお市の方の婿であり、織田氏と縁戚関係にあった。信長は浅井氏とともに南近江の有力大名である六角義賢親子を破り、足利義昭を奉じての上洛を果たした。<br /><br />

その後信長の上洛要求などを拒んで対立した越前国の朝倉氏に対し、元亀元年（1570年）4月に信長が越前へ侵攻を開始すると、朝倉とも縁（同盟関係、主従関係とも）のあった長政は信長から離反し、織田軍を攻撃した。 挟撃された織田軍は危険な状況に陥ったが、信長は「金ヶ崎退き口」と呼ばれる決死の退却で命からがら撤退した。<br /><br />

信長はこの反攻のために直ちに近江へ出陣すると、その軍力を恐れた坂田郡の堀秀村などが信長に降った。浅井氏の本拠である小谷城へ迫る織田軍に対して朝倉義景は一族の朝倉景健を総大将とする兵を派遣した。ついに6月28日、姉川河原で織田信長・徳川家康の連合軍28,000(27,000、30,000とする説もあり)と、浅井・朝倉同盟軍18,000(17,000とする説もあり)が琵琶湖へ注ぐ姉川を挟んで戦った。<br /><br />

戦闘は平地戦で、徳川軍は朝倉軍と、織田軍は浅井軍と対峙した。徳川方の酒井忠次、小笠原長忠の隊が朝倉軍に攻撃したのを皮切りに合戦が開始された。浅井側先鋒磯野員昌率いる浅井家精鋭部隊が織田方先鋒坂井政尚、続いて池田恒興、木下秀吉（のちの豊臣秀吉）、柴田勝家の陣を次々に突破し13段の備えのうち11段までを打ち破る猛攻を見せ、信長を焦燥させる。しかし、織田側後詰として横山城のおさえについていた稲葉一鉄らが援軍にかけつけ危機を救い、続いて苦戦しつつも正面突破を強行した本多忠勝隊や、迂回して朝倉勢を横撃した榊原康政隊、徳川家康本隊の活躍で朝倉軍を破った徳川軍も増援にかけつけたことで浅井・朝倉連合軍は右翼から崩れ始め、北国往還道へ敗走を余儀なくされる。戦闘は午前5時に始まり午後2時まで続いたと伝えられており、戦死者は浅井朝倉方で1800人、織田徳川方で800人、負傷者は各方その3倍と推定されている。合戦場付近の「血原」「血川」という地名は往時の激戦振りをうかがわせる。
<br /><br />
姉川の合戦における浅井家の被害は甚大で、長政が最も信頼していたと言われている重臣遠藤直経をはじめ、弓削家澄、今村氏直ら浅井家で中心的役割を果たしていた多くの武将を失うこととなった。

その後、浅井朝倉連合軍は比叡山の僧兵衆や一向宗と手を結び、しばらく湖西の志賀郡などで激しい攻防戦が繰り返された。一方、織田方の被害も決して軽微なものとはいえず、姉川の合戦後の諸戦で森可成・坂井政尚など織田家古参の諸将や、信長の実弟織田信治を失ってしまう。<br /><br />

そして業を煮やした信長は浅井・朝倉を支持する延暦寺を焼き討ちするなど、周辺反抗勢力の掃討に打って出た。また、軍事的な討伐では落ちないと判断した信長は調略によって浅井家の内部分裂を謀った。
<br /><br />
その代表例が姉川の合戦で最も武功をあげた磯野員昌の離間である。姉川の合戦により領国が南北に分断されてしまっていたため犬上郡の佐和山城を守備する磯野員昌らは孤立してしまい物資の補給すらままならない状態であった。そこに目をつけた秀吉が浅井家家中に員昌内通の風説を流し、長政らに員昌に対する疑念をもたせることに成功、長政は再三にわたる員昌からの物資補給の要請をすべて拒絶し、兵糧が残り少なくなった員昌はついに織田方に投降し浅井滅亡の流れを決定付けることとなった。


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         <pubDate>Wed, 25 Jul 2007 18:15:36 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>北ノ庄城(福井城)</title>
         <description><![CDATA[北ノ庄城(福井城) <br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=36.065456&ln=136.2209&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br />
勝家は北ノ庄城に逃れるものの、4月23日には前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、翌日に夫人のお市の方らとともに自害した。<br /><br /><br />
※お市の方<br />
1567年に兄・信長により近江（現在の滋賀県）の浅井長政と政略結婚し、織田家と浅井家は同盟を結ぶ。1570年、信長が浅井氏と関係の深い越前（福井県）の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶した。しかし、夫長政とお市の方の夫婦関係は周りが羨むほど仲睦まじかったという。
<br /><br />
長政、長政の父・久政、義景は姉川の戦いで敗北し、1573年に小谷城が陥落し夫・長政が自害した。3人の娘（茶々、初、江）ともに織田家に引き取られるが、長男の万福丸は捕われ殺害、次男の万寿丸は出家させられる。その後は清洲城にて兄信長、信包の庇護を受け、三姉妹とともに九年余りを平穏に過ごしたという。このときの兄信長のお市親子に対する待遇はたいへん厚く、お市の方や三姉妹のことを気にかけ、贅沢をさせていたという。また、姪たちには優しかった。信包は、「浅井家の血が絶えるのはしのびない。」と言い、お市の方や三姉妹を手元で保護し、姪たちを養育したという。
<br /><br />
信長没後の1582年に織田信孝の仲介で柴田勝家と再婚する。しかし翌1583年、夫勝家が羽柴秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、その後勝家と共に越前北ノ庄城内で自害した。享年37。

<br /><br /><br /><br />

※北ノ庄城<br />
朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向一揆を平定した功績によって、越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が、天正3年（1575年）に自らの縄張りによってを築城を開始する。同11年（1583年）の賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れ、妻お市と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが灰燼に帰することになる。とはいえ、その後も青木一矩が北ノ庄城に封じられたという記録が残っており、何らかの施設が再建された可能性はある。<br /><br />

城は足羽川と吉野川（のちの百間堀）が合流した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用していたと推定されており、天守は七層（一説には九層）構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。柴田時代の建築をしのばせる史料として、宣教師のルイス・フロイスが天正9年（1581年）に北ノ庄を訪問したときの記録があるが、それによると「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観を増した」とある。この「石」とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石のことであり、現在発掘調査で（後述）見出された柴田時代の石垣は笏谷石であるし、北ノ庄城とほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって築城された丸岡城も天守の瓦を笏谷石で葺いている。これは寒冷地では瓦を使用すると凍結などにより瓦が割れてしまうことなどを理由とする。また、町の規模が安土の2倍ほどもあること、勝家によって足羽川に架橋された九十九橋についても言及がある。次に、勝家を攻め滅ぼした羽柴秀吉（のちの豊臣秀吉）が戦後間もない天正11年4月25日に毛利氏の重臣・小早川隆景に送った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、天守が九層」であった旨の記載があり、当時の城の大規模であったことが知れる。
<br /><br />
平成5年（1993年）から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが、本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていない。

<br /><br />
]]></description>
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         <pubDate>Mon, 23 Jul 2007 19:18:31 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>賤ヶ岳</title>
         <description><![CDATA[<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=35.50735646874257&ln=136.1932611465454&z=4&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
頂上からの景色<br />
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賤ヶ岳の戦い（しずがたけのたたかい）<br /><br />
1583年（天正11年）、近江国伊香郡（現:滋賀県伊香郡）の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉（のちの豊臣秀吉）と柴田勝家との戦いである。織田勢力を二分する激しい戦いとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって、織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけた。
<br /><br />
3月12日、勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させた。秀吉も直ちに兵を出し、3月19日には5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣した。双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築した（遺構がある程度現在も残る）。3月27日、戦線の膠着もあり秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還した。
<br /><br />4月16日、一時秀吉に降伏していた織田信孝が滝川一益と結んで再び挙兵して大垣城下へ進出した。秀吉は翌日直ちに美濃に入って同軍を制圧、岐阜城に入った。秀吉の軍勢が多く近江から離れたのを好機と見た勝家は部将・佐久間盛政の意見具申もあり、同19日、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。大岩山砦を守っていたのは中川清秀であったが、耐え切れず陥落、中川は討死、さらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れた。この成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず盛政はこれを拒否、大岩山などに軍勢を置き続けた。
<br /><br />
4月20日、大垣城にあった秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。午後2時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの丘陵地帯を含む52kmをわずか7時間で移動した。この急激な行軍速度を成功させた理由については諸説あるが、あらかじめ沿道に松明を点け、さらに食事の補給個所も用意もさせていたという。わずかな時間で帰還した秀吉の大軍に驚いた佐久間盛政は同深夜に撤退を開始するものの、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲された。盛政の軍が善戦したために秀吉は盛政の救援に向かっていた柴田勝政に攻撃対象を変更、この勝政の軍に盛政が逆に救援し、激戦となった。
<br /><br />
ところがこの最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如戦線離脱した。このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到した。多勢に無勢の状況を支えきれず勝家の軍勢は総崩れし、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却した。<br /><br />
勝家は北ノ庄城に逃れるものの、4月23日には前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、翌日に夫人のお市の方らとともに自害した。
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         <pubDate>Fri, 20 Jul 2007 18:37:19 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>桶狭間古戦場(豊明市)</title>
         <description><![CDATA[桶狭間古戦場(豊明市) <br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=35.05602&ln=136.97215&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div>
<br /><br /><br />
<a href="http://farm1.static.flickr.com/133/354843302_411d450a74_o.jpg" rel="lightbox">http://farm1.static.flickr.com/133/354843302_411d450a74_o.jpg</a>
<br /><br />
「どこで」、すなわち合戦の行われた戦場については、一般に「桶狭間」という地名で知られており、特に近代以降、「桶狭間の戦い」という名称が歴史学上で定着し、文部省の学校教育を通じて全国的に人口に膾炙している。<br /><br />

「桶狭間」の地名は現在、行政的には名古屋市緑区の有松町（旧・知多郡有松町）に大字として残っており、この行政地名は江戸時代の桶狭間村を継承したものである。名古屋市内の「桶狭間」は東海道から南に離れた緩やかな谷あいで、ここから当時の街道沿いに西に進むと、合戦の前哨戦の行われた丸根砦を経て、今川方の最前線である大高城に至る。名古屋市内の「桶狭間」には、今川氏の家臣である瀬名氏俊が戦いの評議をしたとされる伝承地「戦評の松」（ただし、現在の松は伊勢湾台風で古木が倒壊したため、新たに植え替えたものである）など、桶狭間の戦いに関係すると主張される伝承地が存在する。
<br /><br />
 
桶狭間古戦場伝説地（愛知県豊明市）一方、名古屋市の有松町桶狭間からやや北東、東海道のすぐ傍にある豊明市には、「桶狭間古戦場伝説地」が存在しており、桶狭間の戦いの合戦地として著名である。ここは、今川方の拠点である沓掛城と鳴海城を結ぶ合戦当時の東海道（鎌倉街道）からはやや南に離れてはいるが、鳴海城の方面に通じる谷筋の一角であり、また伝説地の一帯は奇襲に適すると思われる谷あいの地形である。ここには義元の墓が残っていることがかなり古くから知られており、江戸時代の記録（『守貞漫稿』）にもあらわれる。
<br /><br />
ほぼ同時代の史料に基づいて合戦場を見ると、『信長公記』では、今川義元は「おけはざま山」という場所に本陣を構えたと記録されている。<br /><br />

「おけはざま山」の位置は、はっきりとはわかっていない。延享2年（1745年）の大脇村（現・豊明市）絵図において大脇村と桶狭間村の境に図示され、天明元年（1781年）の落合村（現・豊明市）絵図において落合村と桶狭間村の境で前述大脇村絵図のものよりやや南に下った山として示されており、現在の豊明市の桶狭間古戦場一帯と名古屋市の「桶狭間」の間の山を指していたと考えられる。
<br /><br />
一方、江戸時代に描かれた桶狭間の戦いの合戦図の中には、今川義元の本陣所在地として、江戸時代当時の桶狭間村のあたりにある丘を図示したものが見られる。こうした絵図の中の「おけはざま山」が、16世紀の太田牛一の認識と一致しているかは明らかではないが、「おけはざま山」は名古屋市内の桶狭間にある丘陵に比定する説もある。

また、『信長記』には、今川義元が討たれた場所は、田楽狭間であったと記されている。<br /><br />

田楽狭間の場所については、尾張名所図会には「田楽が窪を経て三河の堺川の前なる祐福寺へ入る」、「田楽が窪と言える野を行けば山立ち出るよしおどされて」、「あぶりたる山立ちどもが出であいて串刺しやせん田楽が窪」という一節が残っており、これに表される「田楽が窪」は現在も豊明市二村山周辺に大字として残っている。また本来、坪、窪とは窪地や深田である地内を表しており、これを素直に信じるのであれば当時の鎌倉街道周辺の窪地は、この地を置いて他に無い事になる。しかしながら窪地や深田では無いが江戸時代から昭和の頃まで名古屋市緑区の有松町桶狭間にも同様の字名が存在していたとされる地（現在の地番は有松町桶狭間北）があり、ここに比定される説もある。<br /><br />

以上のように、同時代の史料からは丘陵、緩やかな谷あいや窪地が錯綜したこれら一帯のどこかで合戦が行われたことが明らかになるものの、正確な合戦地の範囲、今川義元の本陣所在地、義元の戦死地などは完全には確定しがたい。<br /><br />

現在、桶狭間の戦いの古戦場の史跡公園として整備された場所は2箇所存在する。ひとつは、豊明市側の「国指定史跡桶狭間古戦場伝説地」で、前述のように古くから義元の墓と伝えられる墓が所在する。伝説地の一帯は、陸軍参謀本部の『日本戦史』など明治以降の諸書の戦史が合戦地と採用するなど、桶狭間の戦いの合戦地として全国的に広く定着し、昭和12年（1937年）に国指定史跡となっている。ここでは、古くから毎年6月に鎧武者の格好で当時の合戦の模様を再現して見せる行事（現在の桶狭間古戦場祭り）が行われている。

<br /><br />]]></description>
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         <pubDate>Thu, 19 Jul 2007 01:25:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>長篠城址</title>
         <description><![CDATA[長篠城址<br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=34.92394152269279&ln=137.55603790283203&z=3&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br />
<a href="http://farm1.static.flickr.com/194/500248017_adf4d618ce.jpg" rel="lightbox">http://farm1.static.flickr.com/194/500248017_adf4d618ce.jpg</a><br /><br />
長篠の戦い（ながしののたたかい）<br /><br />
天正3年5月21日（1575年6月29日）、三河国長篠城（現愛知県新城市長篠）をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万5,000と武田勝頼軍1万5,000（後述の異説あり）との間で行われた戦い。<br /><br />

徳川氏に属する奥三河の長篠城が武田軍に包囲され陥落寸前となったため、家康が織田軍の援軍を要請。旧暦5月21日（新暦6月29日）に長篠城西方の「設楽原（したらがはら）」あるいは「あるみ原」にて野戦が行われ、織田・徳川連合軍側の勝利に終わった。<br /><br />
長篠城攻城戦
奥平信昌は父・貞能と共に、武田信玄存命中は武田氏に属していた。だが、1573年の信玄病死に確信を深め、同年内に家康の誘いを受けて徳川方に寝返った。そればかりか、家康は手に入れたばかりの長篠城に信昌を配し、武田軍への矢面に立たせていた。これに激怒した勝頼は2年後の1575年4月、1万5,000を号する大軍を率いて長篠城に押し寄せた。<br /><br />

長篠城を守るのは信昌以下の500余りでしかなかったが、信昌以下の城兵はよく戦い、武田軍を苦しめた。しかし、やはり数の差は如何ともし難く、武田軍の猛攻の前に兵糧蔵を落とされ、数日以内に援軍がやって来なければ落城は必至という状況に追い込まれた。このとき、信昌の家臣・鳥居強右衛門が包囲された長篠城から密かに脱出して岡崎城まで駆け込み、家康に援軍を要請した。そこで援軍の承諾を得て、その吉報を伝うべく即日、長篠城に戻った強右衛門は、十重二十重に包囲された城への再入城を試みるも失敗。その途中で武田軍に捕らえられ処刑された。
<br /><br />

]]></description>
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         <pubDate>Wed, 11 Jul 2007 13:15:56 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>関が原の戦い</title>
         <description><![CDATA[<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=35.364887&ln=136.46952&z=4&k=0" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
<a href="http://farm1.static.flickr.com/24/35357950_a4e3f6f08b.jpg" rel="lightbox">http://farm1.static.flickr.com/24/35357950_a4e3f6f08b.jpg</a><br /><br />
<a href="http://farm1.static.flickr.com/124/351718059_3e5573a1c4_o.jpg" rel="lightbox">http://farm1.static.flickr.com/124/351718059_3e5573a1c4_o.jpg</a><br /><br />
関ヶ原の戦い（せきがはらのたたかい）<br /><br />
安土桃山時代の慶長5年9月15日（西暦1600年10月21日）に美濃国不破郡関ヶ原（岐阜県不破郡関ヶ原町）で戦われた戦い。関ヶ原の役における最大の決戦である。<br /><br />
豊臣秀吉死後の政権を巡って争われた徳川家康を中心とする派と石田三成を中心とする派の間の決戦。この戦いで勝利した家康は政権を完全に掌握し、徳川氏の覇権を確立した。<br /><br />

日本全国のほとんどの大名を徳川派（東軍）と豊臣派（西軍）に二分したことと、戦い後に情勢が徳川氏に完全に傾いたことから『天下分け目の戦い』とも呼ばれている。なお、東軍・西軍と呼ばれ始めたのは後世のことであり、豊臣の家臣同士の成敗合戦ということで、豊臣家自体表向きは静観の立場を取っていた。<br /><br />

よく誤解されることとして、西軍総大将は石田三成と思われやすいが、西軍総大将は毛利輝元である。しかし、西軍が石田三成を中心とする派閥であったことには変わりない。<br /><br />
]]></description>
         <link>http://xn--mprx06c.xn--lcs7et56bnhb.biz/2007/07/post_2.html</link>
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         <pubDate>Wed, 04 Jul 2007 18:08:28 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>松代城（海津城）</title>
         <description><![CDATA[海津城<br /><br />
<a href="http://farm1.static.flickr.com/9/13055765_0cda02c4bc.jpg" rel="lightbox">http://farm1.static.flickr.com/9/13055765_0cda02c4bc.jpg</a><br /><br />
武田信玄が上杉謙信との戦いの前線基地として、山本勘助が築城したのが海津城である。（その後松代城（松代藩真田家10万石の居城））<br /><br />
1560ころには完成したと推定されている。<br /><br />
川中島の戦いに戦略的に重要な地点であり、第4回川中島の戦いでは信玄はここを居城として出撃した。<br /><br />
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松代城（海津城）地図
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近隣には真田公園
真田宝物館などもある。
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         <pubDate>Fri, 29 Jun 2007 12:32:22 +0900</pubDate>
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         <title>川中島の戦い古戦場跡地</title>
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上杉謙信と武田信玄との川中島での戦いは5度10年に渡っており。
千曲川と犀川が合流する中州である川中島で行われた事から川中島の戦いと総称する。<br /><br />
中でも4回目「永禄4年（1561）」の戦いは、小説などでも有名な霧の中での本軍同士の対峙。
謙信が信玄を切りつける合戦のハイライトなど、主に小説などではこの戦いを「川中島の戦い」と証することが多いです。<br /><br /><br />
この川中島の戦いの、霧の中に上杉軍がいたといわれる合戦の最初の火蓋が切られ、武田軍の勇将武田信繁、山本勘助が討ち死にした戦いの。
武田軍が本陣を構えた「八幡原」は史跡公園となっております。<br /><br />
また長野市立博物館が併設されています。
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八幡原史跡公園（川中島古戦場）地図
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         <pubDate>Thu, 28 Jun 2007 21:29:40 +0900</pubDate>
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