北ノ庄城(福井城)
北ノ庄城(福井城)
勝家は北ノ庄城に逃れるものの、4月23日には前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、翌日に夫人のお市の方らとともに自害した。
※お市の方
1567年に兄・信長により近江(現在の滋賀県)の浅井長政と政略結婚し、織田家と浅井家は同盟を結ぶ。1570年、信長が浅井氏と関係の深い越前(福井県)の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶した。しかし、夫長政とお市の方の夫婦関係は周りが羨むほど仲睦まじかったという。
長政、長政の父・久政、義景は姉川の戦いで敗北し、1573年に小谷城が陥落し夫・長政が自害した。3人の娘(茶々、初、江)ともに織田家に引き取られるが、長男の万福丸は捕われ殺害、次男の万寿丸は出家させられる。その後は清洲城にて兄信長、信包の庇護を受け、三姉妹とともに九年余りを平穏に過ごしたという。このときの兄信長のお市親子に対する待遇はたいへん厚く、お市の方や三姉妹のことを気にかけ、贅沢をさせていたという。また、姪たちには優しかった。信包は、「浅井家の血が絶えるのはしのびない。」と言い、お市の方や三姉妹を手元で保護し、姪たちを養育したという。
信長没後の1582年に織田信孝の仲介で柴田勝家と再婚する。しかし翌1583年、夫勝家が羽柴秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、その後勝家と共に越前北ノ庄城内で自害した。享年37。
※北ノ庄城
朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向一揆を平定した功績によって、越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が、天正3年(1575年)に自らの縄張りによってを築城を開始する。同11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れ、妻お市と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが灰燼に帰することになる。とはいえ、その後も青木一矩が北ノ庄城に封じられたという記録が残っており、何らかの施設が再建された可能性はある。
城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用していたと推定されており、天守は七層(一説には九層)構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。柴田時代の建築をしのばせる史料として、宣教師のルイス・フロイスが天正9年(1581年)に北ノ庄を訪問したときの記録があるが、それによると「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観を増した」とある。この「石」とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石のことであり、現在発掘調査で(後述)見出された柴田時代の石垣は笏谷石であるし、北ノ庄城とほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって築城された丸岡城も天守の瓦を笏谷石で葺いている。これは寒冷地では瓦を使用すると凍結などにより瓦が割れてしまうことなどを理由とする。また、町の規模が安土の2倍ほどもあること、勝家によって足羽川に架橋された九十九橋についても言及がある。次に、勝家を攻め滅ぼした羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が戦後間もない天正11年4月25日に毛利氏の重臣・小早川隆景に送った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、天守が九層」であった旨の記載があり、当時の城の大規模であったことが知れる。
平成5年(1993年)から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが、本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていない。
関が原の戦い